立川談志、死去

談志百席「石返し」「寄合酒」

落語家で落語立川流家元の立川談志氏が、喉頭がんで亡くなりました。75歳でした。落語家の立川談志さん死去 75歳という記事になっています。

東京生まれ。1952年に五代目柳家小さんに入門、二つ目になって「小ゑん」を名乗ったころから才気あふれる高座で認められ、「天才」と賞された。

「古典を端正に演じる一方、機転のきいた社会批評や毒舌でも人気」になり、日テレの「笑点」では初代の司会を務めました。

1983年には真打ち昇進制度を巡り落語協会を脱退し「落語立川流」を作って家元になりました。

1971年には参議院議員に当選し、自民党入りして1期を務めました。

97年に食道がんが見つかり、晩年は糖尿病、喉頭がんを患ったが、本人の希望で声帯の摘出手術はせず、落語への執念を見せた。

戒名は立川談志氏が自分で決めた「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」だそうです。

喉頭がんの再発で声帯の全摘出は「プライドが許さない」と拒否したものの、がんの進行で呼吸困難になり、2011年3月に気管切開手術を受け、話すことができなくなったということです。

元タレントの長女松岡弓子さん(48)は「手術後、筆談で『声は出るのか』と聞かれ、答えることができなかった。筆談のメモがすごい量になった」と涙ぐんだ。

2011年10月27日に容体が急変、それから意識が戻ることはなく、11月21日に息を引き取ったそうです。

弓子さんも「(のどに開けた)穴の隙間から漏れた声で最後にしゃべったのは『私の名前は立川談志。どうしてこうなったの』。主治医には『しゃべりたい』と話したようで、つらかったと思います」。

「しゃべれない談志をさらしたくない」と、弟子たちの見舞いも断っていたそうです。

その死もすぐ弟子に知らせず、近親者で密葬を行い、ひつぎに愛用のバンダナ、かわいがっていたクマのぬいぐるみを入れた。密葬では大好きなジャズ「ザッツ・ア・プレンティ(これで満足です)」を流し、紋付きはかまに扇子を持たせて送り出した。

葬儀が終わってからの公表だったのですね。

心よりご冥福をお祈りいたします。

落語決定盤 立川談志 ベスト

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談志 最後の落語論

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談志 最後の根多帳 (談志最後の三部作 第二弾)

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新釈落語咄 (中公文庫)

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