赤塚不二夫さん死去、大ヒット漫画を連発という記事より。
「天才バカボン」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」などの作品で知られる人気漫画家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、本名・赤塚藤雄)さんが2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂医院で死去した。
2002年4月に脳内出血で倒れてから、闘病生活を続けていた漫画家の赤塚不二夫氏が、肺炎で亡くなりました。72歳でした。
「天才バカボン」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」など、誰もが知っているマンガを執筆し「シェーッ」「これでいいのだ」といった流行語も生みました。
98年には食道がんを公表。10時間にも及ぶ大手術を受けた。5カ月もの長期入院で15キロもやせたが、大好きな酒とたばこはやめられず、型破りな生活を続けた。
本当にお酒が大好きな人でしたよね。取材のときも、いつでも飲んでいるイメージです。
漫画界だけではなく、芸能界にも大きな影響を与えた。タモリが赤塚さんの自宅に下宿していたのは有名な話だ。
これも有名な話ですね。赤塚さん、タモリを発掘…芸にひと目惚れという記事では「あんたは天才だ。九州でブラブラしてる? じゃ、ボクのアパートに住め」という話が。
赤塚不二夫さん死去の3日前に前妻が病死という記事によると、
2人の1人娘で、作品や版権を管理するフジオ・プロダクション社長の赤塚りえ子さん(43)が父の容体急変を聞いたのは、母の遺体の前だったという。
ということで、娘さんにとってはとても辛いことになってしまいました。
「ある日、酔った父が『最後につじつまがあってりゃ、何やってもいいんだ』とボソッと言ったんです。それを聞いた瞬間、あっ、これがバカボンのパパの名ゼリフ『これでいいのだ』につながっていると分かった」
「これでいいのだ」
心よりご冥福をお祈りいたします。
▼天才バカボン誕生40周年記念天才バカボンTHE BEST 講 (KCデラックス)
▼赤塚不二夫のことを書いたのだ!! (文春文庫 た 66-1)
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赤塚さんのネコ「菊千代」が他界したときに、ウチのネコ「ふう」名義で弔電を打ったのさ。そうしたら「オマエのとこのネコから電報きたよ」とギャグを分かってくれたんだよ。
妻真知子さんの付き切りの看護で、呼び掛けると顔を向けようとするまでに回復したものの、06年には真知子さんがくも膜下出血のため急死した。
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アルコール依存症治療のため毎月のように入院して酒を抜く「ウオッシュアウト」の繰り返し。それでも、退院してはまた酒を飲み「ノーメル(飲める)賞だな」とユーモアたっぷりに話していた。
トキワ荘の連中も僕も皆、手塚(治虫)さんの影響で漫画家になった。手塚さんはよく「いい漫画を描きたいなら漫画を見るな。一流の映画、音楽、小説で勉強しろ」と言っていた。これは漫画家を志す人にとって永遠の真理だと思うよ。
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漫画に投影された底なしのパワーと、一人のヒーローやヒロインからは生まれてこない大勢の力は、60年代から70年代にかけての自由で元気な時代の気分と見事に合致。その人気は子どもや学生だけでなくサラリーマン層にまで浸透し、この時期、少年漫画雑誌が隆盛を迎える原動力になった。
上京後の昭和31年に少女漫画「嵐をこえて」でデビュー。東京都豊島区にあったアパート「トキワ荘」で、無名時代の石ノ森章太郎さん(故人)や藤子不二雄(A)さんらと暮らし、共に腕を磨いたことは有名だ。
文芸春秋漫画賞、日本漫画家協会文部大臣賞などを受賞。平成10年には紫綬褒章を受章し、平成15年、東京都青梅市に「青梅赤塚不二夫会館」がオープンした。