「シン・ゴジラ」大ヒットの要因は作品の良さ、それを引き出せたのは製作委員会ではなかったから?

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遅ればせながら映画「シン・ゴジラ」を観てきました。面白いという評価を目にするし、2度も3度も映画館に足を運んでいる人がいるし、これは観ないとならないと思いつつ、ようやく、です。ネタバレを嫌い読んでいなかった記事を、ようやく読んでいますが、その中に「どうしてシン・ゴジラがこんなに大ヒットしたのか?」が分かるような記事があったので、ピックアップしておきたいと思います。

非常にリアリティがあり、さらにテンポの良い映画だと思ってはいたのですが、それにはこんな理由があったとは‥‥という記事です。ネタバレはそれほどしないと思いますが、まだ観ていない方はご注意ください。

まずは『シン・ゴジラ』予想上回る大ヒット 興収50億円超え確実で年間邦画実写1位も視野です。

事前の作品情報がほとんどなく、『エヴァ』ほど積極的に情報を求めるファンも多くはないなか、それほど話題が盛り上がっている感もなく、初日が近づくに連れて興行の行方を不安視する向きもあった。しかし、フタをあけてみれば公開直後から大きなうねりを巻き起こした。

「語らずにはいられないほどの衝撃を観た人たちに与えたことが大きな要因」ということで、特にぼくの場合はFacebookで「シン・ゴジラ」について語っている人を多く目にしました。分析している記事も数多くシェアされ、早く映画館に行かないと、という気持ちにさせられたものです。

良い作品であることが大前提となりますが、なぜ「シン・ゴジラ」は良い作品になりうることができたのか、ということに疑問が湧きます。

それは庵野秀明総監督が「不退転の決意をもって魂を削って作品に打ち込み、自ら全スタッフを牽引して渾身の一作」を作り上げたことに他ならないのですが、昨今の映画との大きな違いが製作委員会の存在です。

からの、若手の旬の俳優をメインキャストに入れる、恋愛要素を入れるといった“ヒットさせるための要素”への意向を汲むこともなく、映像描写についてのよこやりもない。『シン・ゴジラ』は、製作委員会方式をとらずに東宝が単独で制作したからこそ生まれた名作ともいえるかもしれない。

製作委員会は興業のリスクを減らすために重要な存在になることもありますが、それぞれの思惑で横槍が入ることもあります。そうなると、どうしても“ぬるく”なるわけです。

「シン・ゴジラ」では横槍が入ることなく、庵野秀明総監督が信じた方向に進めたことが素晴らしい作品へと繋がったのは間違いないでしょう。

シン・ゴジラ 樋口真嗣監督がエヴァンゲリオンの盟友・庵野秀明総監督を語る「破壊しながら前に進む。彼こそがゴジラだった…」という記事にも、似たようなことが樋口真嗣監督の口から語られていました。

脚本に関して、製作側からは、「もっと人間ドラマを増やしてほしい」など、いろいろな要求があった。だけど、そういうものをすべてそぎ落としたところに、今回の映画があると思っていました。

製作委員会ではなかったからこそ、こうした要求も突っぱねることがしやすかったのではないかと推察されます。

役者に関しても同じ。会議の出席者がどこに座っていて、誰がそれを言うのか、そのとき立ち上がるのか、座っているのかなどを関係者に取材し、役者に反映してもらう。芝居ではなくて再現に近いものでした。

特に早口で語られるシーンが多く、これが結果的に「膨大な情報量で観客を一種の麻痺(まひ)状態、クラブでのグルーヴ感のようにすることを狙っていたと思います」と語られるまでになっている訳です(邦画なのに、日本語字幕付きで上映もされているそうですから)。

彼は大半のスタッフを敵に回したけれど、それくらいじゃないと、この作品のレベルに達することはできない。完成した作品の出来を見て、スタッフはコロっと(味方に)ひっくり返った。

様々なものを破壊し突き進む、まさに庵野秀明総監督自身がゴジラのような存在であったけれど、結果的にヒット商品をつくる、映画会のスティーブ・ジョブズのようでもあるな、と、この最後のエピソードを知って感じました。

映画を見終わって真っ先に思ったのは「よく、15億円で作れたな‥‥」でした。

それにしてもあの終わり方は、続編を期待せずにはおられませんね。