つかこうへい、友人宛に“遺書”を書いていた

つかこうへいさん「恥の多い人生でした」という記事より。

10日に死去した劇作家つかこうへいさんが生前、知人らにあて残していたコメントの全文を、つかこうへい事務所(東京都北区)が12日、公表した。つかさんが4月ごろ、事務所関係者に預け、死後に開封するよう頼んでいた。

昨日、肺がんのため亡くなっていたことが分かった劇作家のつかこうへいが、友人知人にあてて書いたという“遺書”が公開されました。

日付は1月1日ということで、かなり闘病生活に入ってから死期を悟り、覚悟を決めていたようです。

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 友人、知人の皆様、つかこうへいでございます。
思えば恥の多い人生でございました。
先に逝くものは、後に残る人を煩わせてはならないと思っています。
私には信仰する宗教もありませんし、戒名も墓も作ろうとは思っておりません。
通夜、葬儀、お別れの会等も一切遠慮させて頂きます。
しばらくしたら、娘に日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。
今までの過分なる御厚意、本当にありがとうございます。
2010年 1月1日 つかこうへい

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自分の無念よりも、遺される人たちのことを気にかける‥‥短い文章で‥‥果たしてぼくは、こんな風に逝くことができるかどうか‥‥。

つかこうへいが在日韓国人二世ということで、娘さんに日本と韓国の間となる対馬海峡での散骨を託しています。

つかさん“遺書”残していた 一通の封筒によれば、2010年4月、一時退院したつかこうへいから女性マネージャーに「ぼくが死んだら開けるように」と手渡されたそうです。

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つかこうへいさん肺がんで死去、62歳

主な戯曲に「戦争で死ねなかったお父さんのために」「広島に原爆を落とす日」「幕末純情伝」、著書に在日韓国人2世としての思いをつづった「娘に語る祖国」シリーズなどがある。91年読売文学賞、2007年に紫綬褒章。

つかこうへいさん、覚悟の死だった

その後、終末医療で知られる千葉県鴨川市の亀田総合病院に転院。年末に一時退院したが、その時には死を受け入れ今年1月1日に遺言を書いていた。

つかさん長女は気丈に宝塚の舞台へ

10日に死去した劇作家つかこうへいさんの長女愛原実花が所属する宝塚歌劇団(兵庫県宝塚市)は12日、愛原が10日以降も宝塚大劇場の舞台に立ち続けていることを明らかにした。今後も休演の予定はないという。

演劇界の風雲児、美学貫き…つかこうへいさん逝く

手術や延命措置は拒否。親しい関係者に「自分が死んでも誰にも言わないように」「お別れ会もしないように」などと言い残していた。

つかこうへいさん死去 元日に遺書を書き上げていた

役者を育てる一方、地方からの文化発信にも貢献した。94年、東京・北区に「北区つかこうへい劇団」を設立。翌年には大分市にも劇団を作った。さらに、北海道・北広島市でも演劇人育成セミナーを開催していた。

「北区つかこうへい劇団」公演白紙に

8月12日から上演予定の「新・蒲田行進曲」はつかさんと若手脚本家の共同執筆の形で準備が進められており、つかさんも病床で新作台本を執筆していた。ほか「飛龍伝」などを予定していたがこれも白紙に。現在、北区つかこうへい劇団には俳優約40人のほか、演出・脚本コースに約30人が在籍している。

「北区つかこうへい劇団」は存続の意向

「大分市つかこうへい劇団」は01年に解散したが、「北区つかこうへい劇団」については関係者が存続の意向を示している。

つかさん、マネジャーに“遺書”託す

マネジャーによると、メッセージは今年4月、事務所の封筒に入った状態で渡され、つかさんは「自分が死んだら開けて発表してほしい」と頼んだという。A4判にワープロで印刷され、今年1月1日付となっていた。

怒声もう聞けない!教え子ショック!…つかこうへいさん死去

97年に「北区つかこうへい劇団」に入団、モデルから女優に転身した小西真奈美(31)は「信じられない気持ちでいっぱいで、今は言葉にすることができません」。99年の舞台「蒲田行進曲」でも指導を受けた恩師の死にショックを受けていた。

つかさんに演劇界、芸能界から追悼の言葉

◆舞台「飛龍伝」「幕末純情伝」に出演した女優、広末涼子(29)

「本当にいつもパワフルで、止まることのないつかさんの稽古の勢いに、私も得体の知れない力と涙が溢れてきたことを思い出します。つかさんの素晴らしい二つの作品に参加できたことを誇りに思い、ご一緒させていただけたことを感謝しています」