2009年5月2日にがんで亡くなった忌野清志郎ですが、5月4日に都内で密葬が執り行われています。司会者が絶叫する“ロック葬”となり、参列者が「雨上がりの夜空に」を歌い、最後は拍手で見送られた忌野清志郎です。まさに、ライブですね。
RCサクセションを組んだ仲井戸麗市や新井田耕三、女優大竹しのぶ、俳優竹中直人、ミュージシャン細野晴臣も出席した。出棺の際には参列者から「清志郎!」という掛け声が続き、拍手が約5分間も鳴りやまなかった。
テレビで見たら、遺影の縁もピンク色でした。
ネタフルで書いたエントリーです。
▼忌野清志郎、死去
▼泉谷しげる「オレとしては忌野清志郎が亡くなったコトは受け入れません!」
▼忌野清志郎の死にさまざまな声
少しずつ、忌野清志郎とのお別れが進んでいくのですね。
「ぼくの好きな先生」のモデルとなった、都立日野高の担任教師、小林晴雄さんは「よく頑張った。ゆっくり休め」と語りかけたということです。
遺作となったのは、忌野清志郎は作詞作曲を担当した「FM802」のキャンペーンソング「Oh! RADIO」です。
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かつて漫画家や画家を目指した清志郎さんが同曲で「劣等生のこのぼくに すてきな話をしてくれたちっとも先生らしくない ぼくの好きな先生」と歌った小林先生は柔和な笑顔で「実際は苦しんだか分からないけれど、穏やかに逝った顔だったよ」と、語り始めた。
ショックが大きく、報道陣の取材には応じなかったが所属事務所を通じて「彼は高校の同級生でありながら、尊敬し、またあこがれのミュージシャンでもありました。その思いは今でも変わりません。残念です。冥福(めいふく)を祈るばかりです」とコメントした。
「ステージで『バカヤロー』と言っていたのは、最初はあいつ。客に向かってこんな言い方があるんだと。『忌野、これもらっていい?』なんて言ってたら、今度はあいつはステージで『愛し合ってるかい』ですから。オレはあいつに『オレはバカヤロー路線でいく』といったら、上から目線で『そうしなさい、泉ちゃん』と。あいつの方が年下ですけど、上から目線でかっこよかったですね」
闘病中の07年に清志郎さんが三浦友和と「日野高校OB展」を訪れた際に会っており、今年1月の同展でも対面。「人が来ない日時を選んで来たので、彼なりに死期を悟っていたのか。でもその時に“かなり回復しています”と言っていたので(再起を)信じていたのですが」
司会に起用されたのは、レコード会社で長年、清志郎さんの宣伝を担当し、現在もフリーとして清志郎さんのライブやイベントなどで“絶叫調”の司会をしてきた高橋康浩さん(46)。「盛大なる拍手と喝采(かっさい)をお願いします。フォーエバー! いまわのきよしろー!!」と叫び、「今日はボスのためにライブのような告別式を行います」と宣言した。
「訃報は信じ難い、というより信じてません」。自分のほうが年上だが、音楽的な影響について「尊敬に値する師匠。天才。永遠に追い越せない存在」と語った。
清志郎さんの遺体が安置されていた東京・代々木上原の自宅マンション前には3日、早朝から関係者やファンが駆けつけた。吉田拓郎(63)の初代マネジャーも務めた伊藤明夫氏は「(清志郎さんの表情は)眠っているような感じだった」と話した。
卒業後、歌手と俳優に進む道は分かれたが、80代から90年代にかけて、三浦がRCのライブで、観客に気づかれないようにバックバンドの一員として出演、レコーディングに参加したこともあった。
1982年に清志郎さんとコラボし「い・け・な・いルージュマジック」を大ヒットさせた坂本。いまや世界的音楽家となった“教授”は、斎場に入るとサングラスを取り目頭に手をあてた。
三浦の長男・ユウ(25)のデビューの相談も持ちかけたこともあったという。三浦と清志郎さんの40年来の付き合いは深く、ショックも計り知れない。
▼清志郎さん高校担任「そんなに特別な生徒ではなかった」…「ぼくの好きな先生」のモデル
72年に「ぼくの―」を発売したときには、レコードを持ってきて「こんなこと歌にして迷惑じゃなかったですか」と恐縮していたという。「優しい子でしたね」と自慢の教え子の死を惜しんでいた。
通夜では家族3人とも気丈に努めていたが、吉田拓郎(63)の初代マネジャーで30年来の友人という伊藤明夫さんは「あまりに突然のことで、まだ実感がないという様子でした」と明かした。眠るような表情に、ある親族は「もうすぐ起きてくるよ」と話した。
連絡は3、4年取っていなかった。「急に連絡が取れなくなった。あいつ体が悪くなって、あいつなりに気を使ったのかもしれない」。それでも仲井戸らと連絡を取り、清志郎さんの様態が急変したことは知っていた。
ここ4年くらいは会ったり、電話で話したことはなかったという。しかし、数日前から忌野さんの容体が悪化したことは聞いており「(吉田)拓郎も含めて、具合悪くて何やってんだ」と話した。
清志郎さんの曲「スローバラード」「雨あがりの夜空に」をカバーし、アルバムに収録したこともあり「本当にロックな人でした。涙が出てきそう」と表情を曇らせた。
芸能界に進んだ後も親交は続いた。清志郎さんは絵画、自身は陶磁器などを出品していた「都立日野高校OB展」を、毎年のように一緒に訪問。清志郎さんの72年の初ヒット曲「ぼくの好きな先生」のモデルとなった恩師・小林晴雄元教諭(77)を交え、昔話に花を咲かせながら会場を回った。
今は喪失感でいっぱいです。しかしながら僕は忌野清志郎さんの音楽を好きだったと過去形にする必要はないはずです。
現場では、いろいろな場所で歌われた時の話などを聞かせていただきました。現場に自転車で来る姿がとてもかっこよく、あこがれました。復帰されたニュースを見て、また一緒にお仕事をさせていただくのを楽しみにしていたのですが、残念です。
「ロックが世界を変える」と言ってあなたが熱唱してくれたイマジンを私は決して忘れることはありません。アジア、アフリカの子供たちに学校を贈るという私たちの夢をあなたも共有してくれました。感謝しています。
体調不良で入院したのが2週間ほど前。容体が急変したのは1日午後だった。血圧が急激に下がり意識が混濁。眠った状態のまま静かに息を引き取った。みんなで「眠ってるだけだからもうすぐ起きるよ」と言いながら、最後まで再起を信じていたという。
関係者によると、幸太郎さんは2日午後11時ごろ、がんのため都内の病院で死去。85歳だった。坂崎は幸太郎さんの死去の知らせを受けた直後、携帯メールに清志郎さんの訃報のニュースが入ったといい「この日は僕にとって、とても大切な人を2人同時に亡くしてしまった、生涯忘れない日になりました」と落胆。