浦和レッズ・フィンケ監督による“最後の授業”(最後の会見)

浦和レッズ フォルカー・フィンケ監督 最後の会見・前編【川岸和久】という記事より。

今季限りで浦和レッズを退任した、フォルカー・フィンケ監督。12月25日に行われた天皇杯準々決勝・G大阪戦に敗れたことで、この試合が浦和を率いた最後の試合となった。空けた26日、大原練習場で最後の会見が行われ、自身が過ごした浦和レッズとの2年間を総括した。フィンケ氏が就任し、浦和は改革へと歩みを進めた。その改革は、どの程度達成されたのか。そして、それは継続されるのだろうか。

2010シーズン限りで退任した、浦和レッズ・フィンケ監督の最後の記者会見の様子がテキストで起こされています。

まさにこの“総括”ことを望んでいたサポーターも少なくなかったと思うのですが、残念ながらオフィシャルサイトでは読むことが出来ませんでした。

「フィンケ監督に足りないのはさ熱さ」という意見を見かけることもあるのですが、それはあくまでもチームを、そしてクラブを俯瞰・客観視しているからではないかと思っています。

もちろん熱さも必要だと思いますが、浦和レッズに特に足りないのは、こうした客観的な視点であり、まさにフィンケ監督は理論派の教師だったのだな、と思います。

浦和レッズサポーター以外にも、ぜひ読んで欲しい記事です。

気になるところをピックアップしました。

そして違ったところから、藤口さんと新田さん(当時常務)が私に対して、はっきりと『優勝しなくてはいけない』と言わなかったことが、クラブとしての間違い、判断のミスだったというような声があったということを、私はあとあと聞きました。ただし忘れてはならないのは、当時私にこの仕事が依頼された時に、クラブがどのような状況に置かれていたかということです。

そして私が来るまでの、選手たちがどのような形で仕事をしていたか、そして練習をしていたか、そして体に負荷をかけていたか、ということを考えると、私がきてから起きた怪我のすべての理由が、表面的に、いや、この日の練習によってこういう怪我をしたといえるようなものではなかったということが見えてきます。それぞれの選手の怪我の状況によっては、その怪我の理由というものは、さらに深いところにありました。

そして今年3年目なんですけれど、この新しい仕事をし始めた監督の3年目で、今、現時点で彼らはブンデスリーガ首位で、秋の王者になっています。2位との差は勝ち点10になっています。ただし今、彼らが再び新しいチームを作って首位を走ることができるようになったのは、前回の優勝から8年経ってからでした。

私がこの例をあげてお話したいのは、チームで成功を収めるのは一つのプロセスが必要だということです。サッカーというのは、前もってタイトルを約束して、そして成功を約束して、そしてできる限りたくさんの選手を集めて優勝する、そういうものではありません。この一つのプロセスを経て、初めてしっかりとした長期的な成功を収めることができるのです。

浦和レッズ フォルカー・フィンケ監督 最後の会見・後編【川岸和久】 | サッカーを読む!Jマガもあります。

ただし今は違い、4、5年前からは、中東の国々、あとロシアでとてつもないお金を稼ぐことができるようになったのです。なので、引退直前の代表選手たち、いわゆる当時の状況ならば、バインとかブッフバルトとか、ドゥンガ、レオナルドなどなどが当てはまるんですけど、このような選手たちは今日では日本ではなくて、そういう別の国々に行くようになったのです。とういうことは、多くの有名選手にしてみれば、日本に移籍するということは、まったく魅力的なことではないのです。

ですので、これは意図的に私は少し悲観的なことを言うことになるかもしれませが、将来的には日本代表の合宿は日本ではなくて、ヨーロッパで行われるようになるでしょう。アフリカの代表チームを見てください。彼らの合宿はすべてヨーロッパで行われています。コートジボワールとかガーナとかブルキナファソとかこれらの代表チームは、常に合宿と親善試合をヨーロッパでやっています。なぜならば、これらの代表チームの選手はみなヨーロッパでプレーしているからです。

それからJリーグのマネージメントの人間も、お金を稼ぐようなことができるやり方で契約を結んでいかなくてはなりません。でないと徐々に国際サッカー界での競争力を失っていくでしょう。無名な選手ならまだしも、A代表選手が移籍金ゼロで移籍するようなことがあってはなりません。

そしてここでのコンセプトと合わない選手たちに対しては、今はこういう状況だから違うクラブに行った方が活躍できるぞ、ということを説得しなければいけないこともありました。選手たちにとっては、それは常に気持ちいい話し合いではないということは事実です。しかも忘れてはならないのは、他のクラブがここで支払われていたほどの年俸を支払うことができなかったということです。

多くの選手たちの契約は満了した訳ですし、高原は韓国にいきましたし、都築の契約も切れるわけです。これらの契約が満了したことによって、選手を獲得する新しい予算が生まれつつあります。詳細については私は公の場では絶対に語りませんけど、忘れてはならないのはチームの人件費が、私がきた時と比較して、ものすごく安くなったということです。

あと、私がもう一つ気づいたのは、日本で仕事をするのはジャーナリストの皆さんにとってもそう簡単なことではないということです。多くの新聞社では、人事異動があって、例えばそれまでサッカー担当だった人間が、ボクシングの担当になったり、一つの例ですが、こういうのが非常に悔やまれることだと思います。

これはやはりこの日本サッカー界に存在している、この組織とも関係していると思います。日産や三菱というそれぞれの企業が2年おき、もしくは3年おきに新しい人間を、本社のほうからクラブに送り込んでくると、クラブが継続性を持った仕事をすることをするのは、さらに難しくなってしまいます。なぜならそれぞれの社長が自らの組織改革をしようとするからです。