名キャスター筑紫哲也さん死去、73歳…という記事より。
テレビのニュースキャスターとして長く活躍したジャーナリストの筑紫哲也(ちくし・てつや)さんが7日午後1時50分、肺がんのため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。73歳。大分県出身。葬儀は近親者のみで行い、後日お別れの会を開く。喪主は妻房子(ふさこ)さん。
かねてより闘病中だったジャーナリスト・キャスターの筑紫哲也氏が、2008年11月7日に肺がんで死去しました。73歳でした。
2007年5月に「筑紫哲也NEWS23」で肺がんを告白、その後は番組をお休みして闘病を続けてきたものの、帰らぬ人となりました。
1959年、朝日新聞社入社。政治部、米統治下の沖縄特派員を経てワシントン特派員となり、ウォーターゲート事件などを取材した。その後「朝日ジャーナル」編集長時代には企画「新人類の旗手たち」が話題になり「新人類」は流行語となった。
1989年よりTBS「筑紫哲也NEWS23」のキャスターを務めました。およそ20年という長きに渡り、メインキャスターを務めたことになります。
肺がん告白から543日…筑紫哲也さん逝くによれば、
関係者によると、がんは全身に転移。鹿児島県の病院で治療を受けていたが今週に帰京。数日前に容体が悪化したという。がん告白から543日で帰らぬ人となった。
ということです。番組で肺がんを告白した際は「初期の肺がん」ということだったのですが‥‥。
「NEWS23」では、約20分間に渡ってその活躍を振り返ったそうです。「報道ステーション」でも、冒頭に約15分をさいて訃報を伝えたということです。
古舘伊知郎は番組内で「その後に続く者の一人として、私としても、大変な任務なんだということを痛切に感じているわけです。本当に筑紫さん、お疲れさまでした」とコメントしています。
忌野清志郎は「突然の訃報に驚いています。共に病気と闘っているという仲間意識があったのでとても残念です」とコメントしています。
和田アキ子は「誰にも話したことがない悩みを筑紫さんに相談に乗って頂きました。本当に温かいお言葉をかけて頂き、『アコ頑張れ』ってはげまして頂きました」とコメントしました。
吉永小百合は「春なのに『スタジオが寒い』と言っていらした、あの時のお姿が忘れられません。本当に残念です。口惜しいです。『多事争論』をもっともっと伺いたかった」とコメントしています。
心よりご冥福をお祈りいたします。
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筑紫さんは今月に入り、呼吸困難に陥るなど容体が悪化。がんは全身に転移し、手術は出来ない状態だったという。最期は都内の病院で家族にみとられながら、息を引き取ったという。
映画や音楽、演劇にも造詣が深く、番組でも文化や芸術を積極的に取り上げ、黒沢明監督や指揮者の小沢征・さんらがゲスト出演。作曲家滝廉太郎は大伯父で、大分県竹田市の滝廉太郎記念館の名誉館長だった。
筑紫氏は平成19年5月、メーンキャスターを務めるTBS系報道番組「筑紫哲也NEWS23」の放送中に、自ら肺がんであることを告白。手術後の番組への復帰を約束し、闘病生活に入っていた。
1カ月半ほど前にパーティーで会ったのが最後になった。相当調子が悪そうだったが『いや、頑張るよ』とニコニコと話してくれたのが印象に残っている。それだけに、大ショックだ
亡きがらと対面した朝日新聞の記者時代の友人は、「20日ほど前に(病院で)会った。(死に顔は)普段と同じ顔だった」と言葉少なに語った。
「TBSに近況を電話で確かめたくらい。『もう長くはないかな』とある程度予想はしていたので、驚きはない」と鳥越氏。「でも、それでも早いな…」とつぶやいた。
「前にそびえ立っている頂は今も高くそびえ立っている。スタッフ一同、その遺志を継いで報道の最前線で闘っていきたい」。メーンキャスターのバトンを受けた後藤謙次氏(59)は、厳しい表情で決意を語った。
筑紫さんは2006年4月から立命館大学で客員教授を務めていた。同大学広報課によると、国際関係学部で講義を受け持ち、最後に教壇に立ったのは今年7月6日、「京都発 明日への伝言」というタイトルで講義を行ったという。
今年7月5日に収録し8月1日からネット上だけで公開していた「多事争論」を“最後の多事争論”として放送。「この国はがんにかかっている。それに対して私たちはどうするのか」と語り掛けていた。
夜には僧侶の姿も見られたほか、歌手の石川さゆり(50)、歌手の和田アキ子(58)ら弔問客が次々と訪問。