浦和レッズ・興梠慎三 引退発表会見の一問一答「浦和レッズの監督になってJリーグタイトルを獲りにいく」

Koroki intai.

2024年7月31日14時より、浦和レッズの興梠慎三選手による、2024シーズン限りでの引退発表会見が行われました。その一問一答をメモしたものです。

興梠慎三選手 引退発表会見 一問一答

引退を決意した理由は?

自分の力ではチームを勝たせられないというのが正直な気持ち。

今日発表の経緯は

残り4ヶ月があるが、今日は自分の誕生日。この日は自分にとって特別。母に感謝しないといけない、感謝すべき日。ここまで現役を続けられたのも母が丈夫な身体で産んでくれたから。母にとっても特別な日だと思っているので、特別な今日を引退会見として感謝を伝える日でもあると思い選んだ。ニュースカッスル戦と重なったが、わがままを受け入れてくれた関係者に感謝している。

数多くの記録も更新してきた。ここまでブレずにやってきことは?

自信を持って言えることは、自分を応援してくれる人がいたからこそ、ここまで頑張ってこれたと思っている。チームメイトもそうだが、親、家族、たくさんいる。

その中でも自分のユニフォームを着て応援してくれるサポーターには本当に感謝している。その人たちのためにもゴールをとらないといけないという思いでピッチに立ってきた。その思いでここまでやれてきた。

背番号30はレッズにとって大事な数字になった。もし背負う選手がいるとしたら、列図のFWにはどんな

浦和で11年やってきた。エース番号は福田さんのつけていた「9」だと自分でも分かっていた。どうにかして「9」を「30」にしたいという一心でやってきた。遥か及ばなかったが、福田さんが持っている記録を抜けたことは嬉しい。

後輩に隠すつもりもないし、それぞれの番号がエース番号だと思ってやってくれたらいいが、自分がいちばんかわいがっている前田直輝につけてもらうのがいいと思っている。

自分がチームを勝たせられなくなったというのは具体的には?シュートスピードが遅くなった、足が遅くなったなど、どう分析している?

技術面ではそんなに変わりはないが、体力的に、90分間で自分がスタメンから出てどこまでチームのために頑張れるかというと、なかなか長い時間持たないというのが正直な気持ち。

スタジアムに足を運ぶ人はお金を払っており、それに値するプレイができているかは自信がない。プレイで見せないといけないが、それに応えることができないもどかしさが自分の中でずっとあった。だからこういう決断に至ったかもしれない。

鹿島時代は浦和サポーターにとっては素晴らしいゴールを決められた印象がある。浦和に移ってこんなに愛される選手になるとは。吉野家でサポーターに牛丼をおごったというのもよく知られた話。サポーターと選手の関係をどう捉えている?

吉野家だけじゃないですが(笑)行く店、行く店で支払いしてきたが。サポーターというのは、みなさんが思っている以上に、本当に選手たちを後押ししてくれる。特にレッズサポーターはどんな状況でも全力で応援してくれる素晴らしい人たち。だから選手たちはもっと頑張らないといけないし、タイトルとしてサポーターにプレゼントをするというのが大前提だと思っている。

もちろんサポーターと口論することもあるかもしれないが、それはチームにとって凄く大事なことだと思う。お互いが一生懸命にやっているからこそ。今の若い選手はサポーターと話す機会も少ないと思うが、そういうふれあいは大事だと思っているので、いろいろなところでサポーターとふれあって欲しい。口論になってもいいとおもう。

ぼくもサポーターと喧嘩して、ああして欲しいこうして欲しいと言ってきた。それで深い絆になっていったので、若い選手はもっとそういう交流の場を持ってもいいのでは。

たくさんのゴールをとってきたと思うが、いちばん印象に残っているのは?

難しいです。もちろん鹿島での初ゴールも、コンサドーレでの初ゴールも、浦和レッズでも、全てが貴重なゴールで1つは難しい。

浦和レッズに入っていちばん良かったことは?

20年間で3チームに所属し、どのチームも素晴らしく、ここがいいとは言えないが、本当に浦和レッズというチームはやりがいがあって、何よりサポーターの数が多くて、鹿島から浦和にくるときも、なかなかサポーターは簡単には受け入れてくれない、応援されないと聞かされていたので、どうにかしてサポーターの心をつかんで認めてもらうという気持ちできた。

認めてもらったかどうかは分からないが、自分のチャントができたときは、凄く嬉しかったのを覚えている。厳しいチームにきたこと、そこで自分がたくさんのゴールを決めたことを嬉しく思う。本当にこのビッグクラブにきて良かった。

全力で戦ってきた興梠選手はいろいろな歴史を刻んできた。これはちょっと心残り、成し遂げられなかったことは?

現役生活を20年やってきて、今考えれば悔しいシーズンが多かった。鹿島で三連覇でき、浦和でACLを2回とれたのは嬉しく思う。しかしタイトルをとれたときはその日だけの喜びで、2019年にACL決勝で負けたのは今でも悔しい、チャンピオンシップで負けたのも悔しい、悔しい思い出しか残っていない。たくさんJリーグで優勝するチャンスもあった。唯一、浦和でとれていないのがリーグ優勝。それが後悔としてある。

浦和はどうあるべきか、未来へのメッセージは?

タイトルをとる難しさは承知しているが、常にタイトルをとるチームであるべき。Jリーグ、天皇杯、ルヴァンカップ、常にACLに出ていくのが浦和レッズのあるべき姿。口では簡単だが、本当にタイトルをとるのは難しいこと。選手だけでなくチームが一体となってやっていかないとタイトルはとれない。フロント、選手、スタッフ、全てが一体感をもっていければ強いチームでいられると思う。

引退後のビジョンは?

裏方として浦和レッズを支えていきたいと思っている。

現役生活のなかで、タイトルに限らずで忘れられなかったできごとは?

ぼくはこの人のために頑張ろうと思える人と出会えることが大切だと思っている。それが自分の中ではミシャだった。この人のためにタイトルをとりたい、この人のために勝ち点を積み上げ、いいチームにしたいという一心でやっていた。そういう人と出会うことが大切。誰かのためにやれば自分自身も成長する。そういう出会いが大事だと思う。

万能型という言い方もしてきたが、これはプロの世界でやってこられたという自分の武器は?

振り返れば自分はどういうプレーヤーだったか、大してなにかに特化しているわけではなく、ずば抜けているところがないのも正直な気持ち。人と比べてなにが違うかと考えると、このチームで何かを成し遂げたいという強い気持ちはあった。

自分が活躍しなくても、自分を犠牲にしてでもチームが勝てれば良いという考え方できた。それがFWとして良いか悪いか分からないが、そのプレイスタイルを貫いてここまでこられたと思っている。正解は分からないが、それで良かったと思っている。

浦和で10年以上プレイして様々な環境もみてきたと思う。こういうふうになっていったらこのクラブはもっと良くなると感じるところは?

難しい‥‥(しばし沈黙)凄く難しい質問。違う質問で良いか?(笑)

ミシャの名前が出た。ミシャから言葉は?学んだことは?

ミシャには通訳を通して伝えた。そうかと。お疲れさまと言葉をもらった。コンサドーレからは引退覚悟で戻ると伝えていたので、驚きはなかったと思う。

いずれは監督の道に進みたいと思っている。ミシャは誰からも愛された。ミシャの哲学は自分たちが攻めていれば攻められることはないというもの。ボクシングでいえばジャブを打っていれば打たれない、だから攻め続けろというタイプだった。ぼくが監督になったらこうしたいということをやってくれていた監督。

ミシャのサッカーは美しくて、観る人を魅了するサッカーだと思う。そういうサッカーを自分もしたいし、ミシャから今まで教わってきたことを、自分が監督になったときには若い選手に叩き込んで、ミシャのような美しいサッカーをしていきたい。

引退を告げるとき、家族の反応は?引退をチームメイトたちに伝えたときに印象に残ったことは?

いちばん最初に妻、子供に伝えた。妻はサッカーに関しては無関心なところがあるので「あ、そうなんだ」と。お疲れさまと言われたかな?そんな感じ。子供は娘が小4だが、泣きながら「やめるの」と言ってきた。大谷選手みたいになってよと言われたが、それは絶対無理だよ、と。パパなりに頑張ったからごめんね、と。分かってくれた。息子は1歳なので分からないが、伝えた。自分を受け入れてくれた。妻は長い間サポートしてくれて感謝。

チームメイトは自分がこういう性格なので、引退することは隠さず、今年も早い段階から今年でやめるといっていた。それだけ自分は誇りをもってやめられると思っていた。隠さず堂々とやってきたので、知ってましたと言われるくらいで何も言われなかった。

監督業として浦和で指揮を執りたい?野心はある?

野心しかない。浦和レッズの監督になってJリーグタイトルをとりにいく。

チームが勝てば良いというプレイスタイルが生まれたきっかけは?

いちばんは身近で一緒にプレイした柳沢選手の存在が大きかった。直接の指導は受けていないが、2年間一緒に鹿島でプレイした。ヤナさんも個人で打開するというよりは周りをうまくつかうプレイスタイルだった。

センターで自分が潰れても空いたスペースで決めてくれればチームの力になる、それで自分の仕事はできていると聞いたことがある。若い自分にとっては、結果しか求めていなかった自分には、そのときはそこまで刺さらなかったが、日が経つにつれて、どういうFWであるべきかと考えたときに、ヤナさんの言葉が自分にマッチした。

そういうプレイスタイルでいこうと思ったのが、浦和レッズに移籍する頃。ヤナさんのプレイは参考にしたし感謝している。

歴代2位の得点、仲間からパスを引き出す、仲間との関係づくりで意識していたことは?

もちろん信頼関係も大事だが、重要視していたのはその人のクセ。出し手のクセが人にはある。そのタイミングを見極めて動き出すのが大事。人によってプレイスタイルを変えてきたのが、ここまでこれた理由かな、と。

高校2年のときに初めて存在を知った。取材にいったカメラマンがすごいやつがいる、と。鹿島に入団した。プロ入りした18歳の興梠慎三に、38歳の興梠慎三からメッセージを

高校卒業して鹿島アントラーズに入団した。何チームかオファーがあった。高校で1個上の増田誓志がいて、同じポジションの先輩がいるチームにいくので本当に良いのかとずっと悩んだ。でも当時の鹿島は凄く強くて、小笠原さん、本山さん、曽ヶ端さん、中田浩二さんなど凄いメンツがいるなかで、一緒に練習できる、そういう人とやることで自分が成長できるのではないかと選んだ。

いま考えると、最初が鹿島で良かったと思っている。だからこそ、18歳の自分に伝えられることがあるとすれば、鹿島で良かったと。それがなければ浦和レッズに出会うこともなかった。その時はいい選択をしたと言ってあげたい。

2021年、1ゴールしかとれなかった年を振り返ると?

結果としては1ゴールだったが、そこに選手たちからたくさんいろいろなことを学べた年だった。ゴールより価値のある日々を送っていた。結果としては物足りないかもしれないが、それ以上に得たものがある。

浦和レッズの監督を目指すライバルがいるがいつ頃?

ホリさん、どうですか(笑)監督になるためにはいろいろな経験が必要だと思うし、ぼくはどちらかという直感タイプなので、早く監督業が終わるかもしれない、逆にずっといるかもしれない。自分が早くやりたくてもチームがなければできないので、とりあえず下積みから一生懸命やって、なるべく早く浦和レッズの監督にたどり着きたい。

自分がこういう性格でよかったという話があったが、体脂肪を下げろという監督がいるなかで、自分を貫いた性格を分析すると?

ハリル監督のことでしょうか(笑)そんなに体脂肪を気にするなら呼ぶなと思ってました(笑)体脂肪を落としたらいいパフォーマンスになるかもしれないが、自分はこれでやりたいとずっと思っていたし、簡単に落とせるなら落としたい。頑張っているのに落ちないのが事実。いろいろ言われたがそれでも呼ばれたのは結果を残していたからだと思うが、自分の信念を貫き通すのが大事。結果を出す一心で。

海外志望は?

海外からのオファーはあった。自分自身がそんなに海外でチャレンジしたいという気持ちに全くならなかったのが事実。いま考えればすごく後悔している。もっと活躍できたのでは、が半分。あと半分は、行かなかったからここまでできたという思いもある。

サポーターに向けて

サポーターの力は本当にみなさんが思っている以上にすごいもの。この人たちのために頑張ろうと選手たちは思っている。だからこそダメな試合で愚痴を言ってもらっても構わない。選手を後押ししてほしい。ぼくたちはチーム、サポーター、自分、家族のために頑張っている。また埼玉スタジアムでタイトルをとって喜びあえる日が来ることを願っている。

残り14試合。14連勝したら優勝する可能性もある。諦めずに頑張りたい。これまで以上に熱い声援をお願いしたい。