読者なのにあっち側に行ってしまった人のことですよね「読モ」って。読者代表として紙面を飾り、人気者になっていく1つのドリーム。そしていま、ライターが「読モ」になっているという記事が話題になっています。ライターが”読モ”化している件についてです。ぼくはライターではないですし、読モ化もしていないのですが、こうした流れと並走してきたという自覚はあるので、思うところをつらつらと書いておきたいと思います。
「読モ」としてのライターにとって、 ライティングは自身のタレント性を表現する一つの手段に過ぎず、必ずしもそれにこだわる必要はない。動画や音声配信、イベントなど、どんな形であれ自身を露出させることが重要になる。もちろん、書籍や放送メディアなどに進出することもある。その場合、コンテンツの中身は「知」ではなく、おそらく「共感」が大切になるはずだ。
ああ、あの人かな‥‥なんて顔が浮かんでくる人もいますが、要はウェブ時代になってただ書いているだけではなく、自分自身が出演し、体当りして体験し、それを様々な媒体で発信していく人たちのこと、それを「読モ化」とされているようです。
ライターというと、書き手の顔はあまり見えないものかな、と思います。出版社や編集部から依頼を受け、それに基づいて記事を書く。媒体の色にあわせて記事を書き分ける、これは職人芸だと思います。ただし、個性は出しにくい。
この対極にいるのが「読モ」になったライターで、むしろライターというよりはウェブライターなのかもしれません。メディアからの依頼には、恐らく企画段階から深く関わり、自分も露出することで記事の最大価値を生もうとしているのではないかと推察します。
ウェブライターは新時代のライターというか、紙媒体を経験せずにウェブから物書きを始めた人が多いのではないでしょうか。だから、かつてのライターの流儀のようなものがない、通用しない世界で、独自の世界を作り上げていると思います。それが、きっと長くライターをされている人には違和感になるのではないでしょうか。
この記事で筆者が言いたいのは、どちらの方向性が正しいかを裁定することでも、「読モ」としてのライターや、本来の意味での「読モ」という職業を批判することでもない。「ライター」という言葉を巡って、今、分断が生じているということだ。
ライターは職人芸だと思うので、だとすると分断させてしまうのではなく、上手に専門性の高い世界と読モの世界をいったりきたりするといいのではと思いつつ、しかし一方でタレント化してしまうと消費もされるだろうな、とも思います。
記事を読んでて、いつもの顔が出てくると「また君か」と思うことありますよね。「これは普通の記事と記事広告のどちらなのだろう‥‥」とか。タレントや芸人と一緒で、常に新しい世界観を提示していかなと古くなってしまうというのは、これはこれで厳しい世界だと思います。
そこで、ぼくが取っていた戦略が「顔出ししない」ということです。顔出しすればキャラ立ちもすると思いますが、消費されるというリスクがつきまといます。これがうまくいっているのか自分では分からないのですが、とりあえず顔出ししない方針は継続しています。
余談ですけど、顔出しNG、仕事で損をしませんか?という記事もあったのですけど「顔が売れている人は大変よ」というのもありますよね。どこにいても気が抜けないというか。どのくらい有名になると顔出しの弊害があるのか分かりませんが、少なくともウェブライターとして思い起こされる顔の人たちは、きっと街で出くわしたら気づくと思います。
ぼくは顔出ししていないので分かりませんが、これはけっこうなプレッシャーなんじゃないかなぁ。そういうプレッシャーと引き換えに、顔を出して「読モ」になっている側面もあるので、やっぱりそれはそれで楽じゃないライフのはずです。ちょっと露出が減ると「仕事がなくなった」とか「落ち目だ」とか言われたりして。
「ブロガー」という言葉でブログを書いている人たちを一括りにできないように「ライター」という言葉で物書きをしている人たちも一括りにできない、というお話なのだと思います。でも、これは現在進行系の話で、決して「読モ」になるライターがいなくなるわけではないし、むしろ増えていくのではないでしょうか。
だとしたら、やっぱり分断せずにどちらにも行ったり来たりできると強みになるのかな、と思いますが。
いわゆるウェブ系ライターが一般的にライターと認知されるようになったら、純ライターなんていう表現が出てきたりするのでしょうか。
— コグレマサト(∩´∀`)∩ (@kogure) 2017年2月8日