浦和の中心で愛を叫べ

「お母さんが肺がんだって。でも心配しなくて大丈夫だから。治るから」携帯電話から聞こえる父の声は、自分に言い聞かせているようでした。

告知の電話を受けたのが、2007年1月15日でした。あれから約10ヶ月。母はひとり、戻らぬ旅に出てゆきました。

もう父からの着信に、心臓が止まる思いをする必要がないという点については、ぼくホッとしています。

母が病院に行く日は、いつ電話が鳴るのか朝から不安でしたから。

母のいた部屋から咳が聞こえないという点についても、ぼくはホッとしています。

仕事の行き帰り、母の咳が聞こえてくると胸がしめつけられました。一生、終わることがないかもしれないその咳に‥‥。

そして母は、戻ることのない旅にでました。

亡くなってから10日が経ちましたが、未だ現実感はありません。まだ病院に入院しているのでは、というくらいに思えます。

引き出しを開ければそこに、冷蔵庫を開ければそこにも、まだ母の痕跡が残っています。リアルのない浮遊している感覚はしばらく続くのかもしれません。

幸いなことに、多くの方が家を訪れてくれました。35年前の母親学級で知り合った人から、ダンスや水泳の仲間、小学校の同級生まで、家族でさえも驚く交友関係の広さでした。

母の昔話を聞くにつけ、入れ替わり立ち替わり人が訪ねてくれるにつけ、その度毎に家族は癒されました。

ブログに訃報を書いたことで、トラックバックもたくさんいただきました。またソーシャルブックマークでもコメントをいただきました。数多くのメールや、mixiのメッセージももらいました。

通夜、告別式に参列頂いたみなさま、弔電や香典を届けてくださったみなさまにも感謝いたします。

本当にありがとうございました。

救われました。

ぼくはひとりではないということを、実感し、悲しみの渦から少し這い上がることができました。そして、人は支え合って生きているのだということを、身を以て知りました。

たくさんの光が届かなければ、もしかするとぼくはまだ暗闇の中にいたかもしれません。

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11月14日は浦和レッズがACLを制覇しました。スタジアムにも足を運ぶくらい、浦和レッズを愛した母でした。

サッカーが好きなのではなく、ただ浦和レッズを愛した。

スタジアムにファーストインプレッションが鳴り響き、サポーターのチャントが始まると「鳥肌が立つんだよ」といった母。

レッズの優勝にわいた浦和の街に立ち、その夜、浦和に生きる、生きた幸福を実感しました。

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音楽が好きでいつも自作の歌をうたっているような母の影響で、小学生時代にはエレクトーンを、中学生時代にはブラスバンドを、高校時代にはバンドをはじめ、大学時代に作詞作曲してライブハウスに立ちました。

そしてインターネットにふれ、ギターはキーボードに持ち替え、作詞作曲する代わりに言葉をつづり、メールマガジンからブログを通過して今に至ります。

思い返してみると、母からもらったたくさんのモノのお陰で、いまここのいるのだなぁ、と思うのです。

ブログを書かない10日間も、悪くはありませんでした。散歩したり幼稚園の送り迎えをしたり。

しかし、何かを書き綴り続けることこそが、母への感謝と供養になるのだと気づきました。

だからもう一度、ここに戻ってきました。ここで書き続けます。また、どうぞよろしく。

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