橋本真也さん急死に関連する記事を集めました。改めてその存在の大きさを感じました。合掌。
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11日朝、橋本さんは横浜市内の自宅で「頭が痛い」と訴え、意識がもうろうとなった。同居の女性が呼んだ救急車で同南区の病院に運ばれたが、既に心肺機能は停止しており、まもなく死亡が確認された。
新日本時代に闘魂三銃士として、ともに活躍した全日本の武藤敬司は、仲間の悲報に無言を貫いた。
3時間に及んだ弔問を終えると「同じ子供を持つ身として、バカ野郎だ。子供のことを考えると涙が出てくる」と目頭を押さえた。
「突然の訃(ふ)報に言葉も出ません。これからというときに、あまりにも早すぎる…。何もかも残念としか言いようがありません」
橋本が付き人時代に考えられないミスを連発、付き人の下に付き人を置いたエピソードを披露し「誰にも憎まれない豪快な性格だった。オレより先にいきやがって“バカヤロー”と言いたい」と沈痛な面持ちで語った。
三沢社長率いるノアは11日午後6時半、高知大会の第1試合開始前に外国人を含む全選手がリングサイドに集結、10カウントゴングで橋本真也さんに哀悼の意を表した。
「以前から太く短く生きると言っていた。体中ボロボロだったと思う。それでも、本人がエンジョイした人生ならいいと思う」。闘魂三銃士はこの日で“解散”となったが、蝶野は橋本さんの分までリングに上がり続ける。
撮影中「右肩を壊していたので降板の話を持ちかけたら“オレはプロレスラーだから大丈夫だ”と怒っていた。撮影を始めたら良くなってきたので、やっぱり常人とは回復力が違うと思った」と振り返った。
古舘キャスターは「(現在のプロレスは)受け身を取りずらい技を連発するようになった。それに歓声を上げるファン。リング上は、それに応えるようにヒートアップする。彼は殉職だと思います」と厳しい表情で話した。
「橋本さんのあまりにも早すぎる悲報に言葉がありません。ロスにて汗を流していた頃の橋本さんの笑顔が思い出され残念です」
葬儀・告別式は16日午後0時半から横浜市西区元久保町3の13、一休庵久保山式場で。喪主は妹真生(まき)さん。
「ハッスル創世記の第一人者。本当に残念。肩のケガを治してから復帰してもらえると話していたばかりだった」と悲痛な表情で口を開いた。
橋本さんは新日本プロレスを退団した後、新団体「ゼロワン」を設立したが、坂口相談役は「もともと血圧は高かったが…。ゼロワンで心身ともに大変だったのではないか」と言葉少なだった。
橋本さんは1965年(昭和40年)7月3日、岐阜県土岐市生まれ。柔道で活躍し、84年4月に新日本プロレスに入門した。同9月1日、後藤達俊戦でデビュー。89年から武藤敬司、蝶野正洋と闘魂三銃士として人気を集めた。
「(橋本選手は)プロレス界の構造改革の担い手だった。低迷するプロレス界の改革を進めるために、本当に重要な人だった。何で今なのかなぁ」
「本当に残念だね。ただ、本人がエンジョイできた人生であればよかったと思う」と突然に悲報に、言葉少なく語った。
「20年以上の付き合いだけど、まさかこんなに突然に…。信じられないよ」と話した。