ガチョーンもう見られず…谷啓さん転倒死という記事より。
高度経済成長期の日本列島を笑わせたクレージーキャッツのメンバーとして活躍し、「ガチョーン」などの流行語を生んだタレントで俳優の谷啓(たに・けい)さん(本名・渡部泰雄=わたべ・やすお)が11日午前5時7分、脳挫傷のため東京・三鷹市の杏林大病院で亡くなった。
タレント・俳優の谷啓が、自宅の階段で転倒し顔面を強打し、病院に搬送されたものの、脳挫傷で亡くなりました。78歳でした。
突然の死だった。谷さんは10日午後5時50分ごろ、三鷹市内の自宅で、1階から2階に階段を上がろうとした際につまずいて転倒。前のめりに倒れて階段に顔面を強打。「バタン」という大きな音がした。それに気づいた家族が倒れている谷さんを発見して119番通報し、病院に搬送された。
なべおさみがテレビのインタビューに答えていましたが、見舞いに訪れた際には、なべおさみのことが分からなくなってしまっていたのだそうです。
「トロンボーンでドレミを吹けたけど、会って1時間半後に『お前、なべおさみみたいだな』と言われた。そのあと、僕は泣きました」と、昨年のことのようです。
ぼくの中で谷啓といえば「クレージーキャッツ」そして「ガチョーン」にトロンボーン、さらには「ざわざわ森のがんこちゃん」の主題歌です。
谷啓という芸名は、アメリカのコメディアン、ダニー・ケイから取ったものです。
「音楽ギャグを考えさせたら日本で右に出る人はいないくらい好きだった方です。残念でなりません」と志村けん。
クレージーキャッツの仲間だった犬塚弘は「大切な友が突然、消えてしまった。ショックで寂しい。谷とは相性が良かったし、互いに酒が飲めないこともあって、黙っていても気が合った。地方公演でみんなが遊びに出掛けても、2人で部屋に残って自然でいられた」とコメントしています。
ハナ肇、植木等らが待つ天国へ。心よりご冥福をお祈りいたします。
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60年代に大ヒットしたテレビ番組「おとなの漫画」「シャボン玉ホリデー」などで植木等さんに次ぐ人気者に。口数は少ないながら、急所で笑いを取った。大げさな身ぶりで発するギャグ「ガチョーン」「ビローン」「谷だあ」などは流行語になり、温厚そうな丸顔で愛された。
谷さんは昨年から「ずっと仕事一筋の人生だったので、今後はのんびりと暮らしたい」と希望し、自宅で和子さんと一緒にテレビドラマを観賞したり、孫の面倒を見て過ごす時間が多くなっていたという。
日本テレビ「シャボン玉ホリデー」のディレクターだった五歩一勇氏の著書「シャボン玉ホリデー スターダストを、もう一度」によると、牌をツモった時に思わず発した奇声だったとされる。手の動きも牌をツモり引いた時のしぐさが由来。
くしくも今年、「クレージー―」の結成55周年だった。06年末の青島さんの葬儀では「青ちゃん、谷だァ。返ってきませんね。寂しいです」と弔問客の涙を誘った。07年春には、植木さんの「さよならの会」で葬儀委員長を務め「ともに夢を追い、夢をもらい、50年以上がたった。お疲れさん、植木やん、さようなら」と語り、長年の盟友を送る言葉に、優しさがあふれていた。
中央大在学中から「原信夫とシャープス・アンド・フラッツ」などの楽団でトロンボーンを担当。1956年にハナ肇さん率いるクレージーキャッツに参加した。芸名は米喜劇俳優ダニー・ケイをもじって付けた。
他にも、いじめ抜かれた後に突然開き直る「谷だぁ!」や「ビローン」でも楽しませたが、自分について生前、「人見知りする性格の半面、人を喜ばせたい気持ちがずっとある」と分析。子供のころからサービス精神が強く、「お手伝いさんを驚かそう」と硬くなった犬のフンをかじったことも。
クレージーでは植木等さんを陽とするなら、谷さんは陰ともいわれた。極度の恥ずかしがり屋。“高速まばたき”の異名を取った目をパチパチとするしぐさは、緊張感から出たものだった。
所属事務所によると、通夜と葬儀・告別式は親族の希望により密葬に。日時や会場は非公開にするという。ただ、後日、お別れ会を開く予定で、詳細については改めて明らかにする。
谷さんがメンバーだった「クレージーキャッツ」は、1955年4月にハナ肇を中心に、前身の「キューバン・キャッツ」が結成される。翌56年に「ハナ肇とクレージーキャッツ」に改名。進駐軍のキャンプ回りをしていた際、演奏中に洗面器で頭を叩くギャグが面白く、“YOU CRAZY”と言われたことから、改名したとされている。
所属事務所「渡辺プロダクション」の諸岡義明専務取締役は「シャイで、とてもおだやかで温かい人でした。まあ怒ったところを見たことがなかったです」と人柄をしのんだ。
。「黙っていても、あうんの呼吸で分かる存在。目が合うと指をさして、“昔と変わらないか?”とか、“家族は元気か?”とか、“番組に呼んでくれてありがとう”と目で話した。谷は元気そうに“うん”とうなずくだけで、すべてを分かってくれた」
弟のようにかわいがられた小野ヤスシ(70)は「普段から人をクスッと笑わせるのが好きな、少年のような人。コントも芝居も音楽も、すべてにおいて天才でした」と天を仰いだ。
最後に会ったのは昨年春。雑談を約1時間した後の帰り際には「おまえ、なべおさみみたいだね」といわれたという。「一番失いたくない人だった。ほんと、サンキュウですね」と涙をこらえた。
「思慮深くてそう明で、そしてとてもシャイな人でした。簡単に逝ってしまう人じゃないと思っていたんで、本当に頭の中が混乱しています」と悲報を受け止められない様子。1年ほど前のテレビの旅番組が最後の共演だったという。
谷さんは「はっきり言って、ボクはコメディアンより、普通の役者の方が向いていると思う」と語っていた。長い芸能生活で、62年のドラマ「田辺死す」(日テレ系)で初主演して以降、出演作は数え切れず。若い人にとっても「谷啓」と言えば、コメディアンより俳優のイメージが強い。
▼元「クレージー―」付き人・島崎俊郎は感謝「とうそん」今も…谷啓さん急死
谷さんには作家・島崎藤村から取って「とうそん」と呼ばれていた。「何万回も『とうそん』と呼ばれ、数え切れないほどの思い出がある。その言葉の響きが今でも頭に残っています」。付き人に対しても、同じ目線に立ってフランクに話してくれる人だった。
谷さんと同じ中大の音楽研究会に所属、大学時代から先輩・後輩の仲だった高木ブー(77)は「同じ釜の飯を食べた先輩であり、尊敬していた先輩であります。谷さん、まだ早いんじゃないの?」と、悼んだ。
忘れられない言葉を聞かれると「『(トークには)リズム感がすごく大事だよ』って、よく言われました。同じミュージシャン出身だから、同じモノを感じてくれていたのかな」としみじみ。